目覚める人を最前列で応援する

フルエール合同会社代表 安倍大資
私は新聞記者から独立し、自己理念をテーマにしたコーチングを仕事にしています。この仕事をしている理由は、過去の私の失敗や苦しみが原点にあります。
34歳、どん底うつ状態9ヶ月
私は新聞記者11年目だった34歳の時に、うつ状態になりました。当時、東京・霞ヶ関の記者クラブで、国の動きを取材する担当記者でした。仕事のちょっとした変化をきっかけに、メンタル面が崩れていったのです。
仕事はかろうじてこなしていたものの、週末はカーテンを閉め切った真っ暗な部屋から一歩も出ず、ベッドの上で眠りこけ、起きてスマホを適当に眺めては、また眠りこけました。ほとんど廃人でした。私の頭には、過去の後悔ばかりがありました。根底にあったのは「私は、自分の人生を生きてこなかった」という思いでした。

兄への憧れと疎ましさ
頭を占めていたのは兄の存在でした。私は男3人兄弟の次男に生まれ3歳上に兄がいます。私が新聞記者になろうと思ったのは、今も新聞記者をしている兄の影響です。地元の北九州から東京の大学に進学したのも、先に東京の大学へ行っていた兄の影響でした。
高校時代の私から見る兄は「口達者で、周りを明るくする存在」でした。飲み会などにぎやかな場から電話をかけてくる兄の存在は、もともと「まじめコツコツ型」の私にとって、どこか憧れに感じるような存在でした。同時に、兄に言いくるめられることもよくあり、心ではどこか疎ましさも感じていました。
決してそうありたいと思ったわけではないのですが、大学以降の人生、私はずっと兄の後ろを追い続けるように生きていました。「兄の二番煎じ」「兄の影武者」という意識が30代前半までずっとつきまとっていました。

「会社を飛び出してまで、やりたいことがわからない」
兄との関係において、何もしなかったわけではありません。30歳の時、自分の人生への違和感がどうしようもなくたまらなくなり、兄を東京駅そばの居酒屋に呼び出しました。私は今考えてもおかしなくらい2時間一方的に、彼にそれまで思っていたけれど言えなかったことを、真正面からまくし立てました。「なんであの時、こんなことを言ったんだ」。従順だった私が、兄に反抗するのは初めてでした。
兄は「お前、おかしいんじゃないか」と怒り、居酒屋のスライドドアを壊れる勢いで閉めて、立ち去っていました。私は不器用でした。関係を自ら壊しにいきました。でも、兄との関係を変えないことに、自分の人生はないと思っていたのです。
そこから数年間、私は記者の仕事をしながらも、自分が本当に納得できる生き方はどこにあるのか探し求めました。もともと好きだった自然分野を仕事にしたいと思い、気象予報士の資格を6年がかりで取りました。だけれど、いざとってみても気象会社などに転身する勇気は出なかったのです。

ビジネスの資格があれば何か見つかるのではと思い、中小企業診断士も2年間勉強しました。だけど、自分が会社を飛び出してまで、やりたいことがわかりませんでした。
「何もかもやり直したい」。うつ状態の私は、真っ暗なベッドの上で、まだ楽しく感じられていた高校時代に戻ってやり直したいと思いました。坊主の髪型にすれば、何か思い出せるかもしれないと突如思い、床屋に駆け込みばっさりと髪を落としました。次の日、職場に行くと、皆が目を丸くしていました。私はそれだけ、自分を見失い、錯乱していました。

信じられなくなった「当たり前」
当時、霞ヶ関の官僚や永田町の政治家、大企業の幹部を取材する中で、社会で「当たり前」と思われていることを疑問に感じるようになったことも、不安定な心に拍車をかけていました。特に霞ヶ関で働く人は、学歴や職歴から見れば、エリート集団です。それでも、数年取材するうちに、生き生きと働いている人がほとんど見当たらないことを、私はとてもふしぎに思うようになりました。皆、自分を押し殺して働いているようでした。メンタル面の不調で休職する人の話もときどき耳にしていました。私の会社の同僚も、同じように悩んでいる人が多くいました。
「何かおかしいのではないか」。私はそれまで「いい大学、いい会社」がいわゆる人生の成功だと、心のどこかで信じていました。でも、常識だと思っていたことが信じられなくなりました。何を信じればいいのか、私はわからなくなりました。

不器用に悩むなか、たった一つだけ確かなことがありました。「このままの人生の延長上に、自分の幸せはない」ということです。
その時、初めて「自分とは何者なのか?」という問いが切実に迫ってきました。内省的な私は小学5年生の頃から日記を書き、自分なりに「私とは誰」ということについて考えてきたつもりでした。自分自身のことなのに、わかっているようで、やっぱりわからない。まず何よりも、自分自身のことをゼロから知り直すことからではないかと思いました。
偶然、インターネットで自分を知るプログラムに出会いました。3ヶ月、徹底的に自分の価値観を見つめました。主に20代向けのプログラムでしたが、30代半ばになっていた私は、ワラをもすがる思いで取り組みました。
それが「コーチング」との出会いでした。
追い求めるのは「他人の評価」ではなく「自分の価値観」
「自分を知り直す」ことが、私の人生の大きな転換点になりました。真に納得できる生き方とは、他人の評価を求めることではなく、自分自身の価値観に基づいて生きることだと知ったからです。
価値観に沿った生き方を考えた時「コーチング」は私にあっていると思いました。私のように、世間体に悩んでいる人を、自然体に生きる人に変えたい。それを仕事にしたい。気象予報士や中小企業診断士の資格の勉強を何年と続けても見えてこなかった独立の道が、初めて具体的にひらけました。そこからCTI(Co-Active Training Institute)というコーチングスクールに入り、徹底的にトレーニングを受けました。
しかし、会社を辞めることはとても勇気がいることです。特に私の勤めていた新聞社は離職率が低く、モデルケースになるような人はいませんでした。
勇気をくれた定年後の父の姿
勇気をくれたのは、父の姿でした。父は43年間、九州の一つの会社を勤め上げた人間です。正直言えば、私は会社員時代の父を好きではありませんでした。いつも疲れ気味で、元気がなかったからです。
父は65歳の定年の数年前から、父の故郷である大分県宇佐市で農業を始めていました。長年、手がつけられていなかった荒地を耕し、畑に変えていっていました。帰省するたびに、父の畑は少しずつ大きくなっていました。自分で耕した畑を誇らしそうに語る父。あれだけ、元気のなかった父が、人が変わったように生き生きと一日中畑に出ています。
人は、やりたいことに向かって踏み出した時に、変われる。父の姿が、私に踏み出す勇気を与えてくれました。

35歳、ゼロからのスタート
私は3年間の環境省記者クラブの担当をやりきった2021年3月に、12年間勤めた日本経済新聞社の記者をやめました。
東京を離れ、実家のある北九州に戻り、高校まで過ごした部屋で、個人事業主の届け出を書きました。
35歳、すべてを手放し、ゼロからのスタートでした。

そこから2年、私自身が「ふるえる」生き方を体現していきたいと考え、キャンピングカーでの日本一周や大学院進学などと並行して、コーチングの仕事を続けてきました。
かつての私のように、一見「成功している」と見られがちな大企業に勤めながら、心では悩んでいるクライアントさんも多くいます。そうした方が、肩書きや所属を外して、心の中にある思いを語り、そして気づきを得ていただく時間をともにすることが、私の最大の喜びです。
私自身はこれまで新聞記者しかやったことがなく、家族や親戚に起業家もいません。事業は決して簡単ではありません。けれども、自分がやっていることに、新聞記者として働いていた時以上の手応えと喜びを感じています。


コーチングとリトリートで人を自然体に
いま私がチャレンジしていることは2つあります。ひとつは大学院で専攻しているデザイン思考の考え方を、コーチングと組み合わせて「新しいコーチングプログラム」を確立することです。
るデザイン思考は「人や社会をよりよく変えていく思考のプロセス」をいいます。この考えを学びながら実践していくうち、私自身の考えも大きく変わっていきました。
コーチングはまだまだ「よくわからないもの」という見方が多くあります。そうした見方から、本来必要としている人に届いていない現状があると感じています。そのため、信頼感のあるデザイン思考をもとにしたコーチングプログラムを確立することで、必要な人が安心して利用できるサービスにしていきたいと考えています。
もうひとつは、新たなリトリート作りです。私は人生で辛かった時、森を歩くことで精神的に救われてきました。森を歩くことは、科学的にも人の心理面で好影響があることがわかっています。
地方の森を歩き、自分自身を見つめ、他者と対話をしながら、大切な気づきを得て変わっていく。それを「リデザインの旅」と名づけて、事業化を進めています。国のプロジェクトの代表にもなりました。いま、志を同じくする各地の仲間たちと挑戦の真っ最中です。


自らの心を信じ、心ふるえるほうへ
私がコーチングとリトリートを通じて実現したいのは「世間体から自然体へ」というビジョンです。なぜなら、自然体で生きる人が最も輝いているからです。
フルエールという屋号は、変わろうとする人をめいっぱい(フル)応援したい(エール)と私の心からの願いを込めました。そして、一緒に心ふるえるほうへ進んでいこうという思いものせています。
一人ひとりが、自らの心を信じ、心ふるえるほうへ。そしてともに応援し合う社会を作りたい。それが私の作りたい世界です。


早稲田大学を2009年に卒業後、日本経済新聞の記者を12年間務める。霞ヶ関の担当記者として官僚、政治家、企業経営者ら各界2000人のリーダーに取材してきた。署名記事は200本。34歳の時に精神的などん底に陥り、同時期にコーチングに出会う。価値観を見つけて自分自身が変われた経験からコーチに転身。2021年4月に独立。22年11月にフルエール合同会社創業。
CTI認定プロフェッショナル・コーアクティブコーチ(CPCC®︎)/コーチング「自己理念®︎プログラム」主宰/リトリート「リデザインの旅®︎」主宰/京都芸術大学大学院(MFA課程)に在籍
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